第五章:均一の檻にて|1 scent for dreams


朝の通勤電車は、まるで押し花のようだった。

誰もが皺一つなく畳まれ、無言のまま定位置に押し込められている。

類はそのなかで、呼吸の仕方を忘れかけていた。

学生時代に抱いた「自分は特別だ」という誇りは、

吊り革の揺れとともに、次第に色を失っていった。

香水会社——それは華やかな世界だと誰もが思っていた。

だが、実態は違った。

「ヒットを出せ」「売上を伸ばせ」「トレンドを見ろ」

感性ではなく、数字が求められた。

彼の提案する香りは、何度も却下された。

「詩的すぎる」「分かりにくい」「売れない」

その言葉のひとつひとつが、

かつて演技の現場で浴びた評価とは異なる種類の冷たさだった。

そして、彼が学んだことは——

会社とは、均一化の装置である、ということだった。



昼休みの社員食堂。

誰かが「葉山さんって、あの有名な音楽家の息子でしょ?」と囁いた。

言葉には棘はなかったが、

そこに張り付く興味と距離感に、類は目を伏せた。

「偉大な父を持つ、普通の息子」

それが、周囲の暗黙のラベルだった。

努力しても、創造しても、

それは「父親の血だろう」と処理され、

失敗すれば、「やはり二代目はダメだ」と笑われた。

その悔しさは、演技の挫折よりも深く、鈍かった。

なぜなら、それは“努力では超えられない壁”のように見えたからだ。



類は反骨心を燃やした。

誰よりも早く出社し、

誰よりも遅くまで働いた。

会議室のホワイトボードは、彼の書き込みで埋め尽くされた。

数字、成分、ブランド戦略、感性の言語化。

何かを証明したかった。

“自分”の存在を。

そんなある日、社内のプロジェクトで新作フレグランスの立ち上げが告げられた。

類は自ら立候補した。

プレゼンの資料には、こう書かれていた。

——「ネロリ、それは記憶の扉を開く鍵。」

誰も知らないその香りの意味を、類は知っていた。

兄が遺していったもの。

初めて香りという表現に出会った日。

それは、自分の原点だった。

上司はひとこと言った。

「悪くない。少し詩的すぎるが、試してみよう」

その日、類は机の下で拳を握りしめた。

やっと、“自分の言葉”が、ひとつ届いた。


だが、喜びは長くは続かなかった。

ブランド部門との衝突、社内政治、広告戦略とのズレ。

企画は何度も修正され、

最終的に“ネロリ”は“シトラス・ブロッサム”へと改名され、

類の名前はクレジットから外された。

——また、誰かのものになった。

そのとき、類は気づく。

「誇り」は、“結果”ではなく“継続する意志”によって守られるものだと。

そして、企業のなかでは、

“結果”と“評価”は、必ずしも一致しないのだということにも。



深夜の帰路。

コンビニの灯りだけが点在する道を歩きながら、

類は、ふと胸ポケットから古びたネロリの小瓶を取り出した。

キャップを外し、

そっと香りを吸い込む。

兄の声が聞こえた気がした。

「類、おまえのやり方でいい」

そう囁いたのは、香りだったのか、記憶だったのか。

類は思った。

勝つことがすべてではない。

だが、負け続ければ、何も守れない。

それが、社会という場所だった。

この檻のなかで、どう“違い”を守るか。

それが、これからの課題だった。