第六章:匂い立つ名のもとに|1 scent for dreams


静かなる復讐は、花が咲くように始まった。

音もなく、だが確実に。

類は、あの日ネロリの名が奪われた悔しさを胸に、

それでも香りの世界で生きることを選んだ。

そしてその選択は、

やがて誰にも止められない“快進撃”へと変わっていく。




最初のヒットは偶然だった。

夏向けの限定シリーズ。

誰もが無難なマリン調を提案する中、

類はただひとり「冷えた白桃とミントの香り」を出した。

「甘いのに、冷たい」

「果実なのに、都会的」

「懐かしいのに、新しい」

社内では賛否両論だったが、

発売と同時にSNSで話題となり、初回生産は三日で完売した。

インフルエンサーの投稿、

“#匂いだけで恋に落ちる”という言葉がトレンドになった。

類の提案した香りは、ただ“売れた”のではない。

“記憶”になった。

それは、かつて兄の香水が、

彼のなかに残したものと同じ“作用”だった。



二作目、三作目と類はヒットを連発した。

“香りの天才”“感性の錬金術師”

そんな仰々しい二つ名が、業界紙で踊った。

しかし彼自身は、それらの称号に無関心だった。

求めていたのは名誉ではない。

“香りが届く”という、確かな手応えだった。

なぜなら、それは──

かつて伝えたかった感情のかけら、

誰にも届かなかった演技の代償、

そして、兄への“報告”でもあったから。



上司たちはようやく類を“主役”として扱い始めた。

重要なプロジェクトの香料選定、

広告コピーの監修、

さらには新ブランドの立ち上げ案も任されるようになった。

だがその一方で、彼の中には奇妙な空洞も生まれ始めていた。

仕事は充実していた。

評価もついてきた。

けれど、なにかが足りなかった。

それはきっと、

“語る相手”の不在だった。

過去、兄に語りかけるように香りを作っていた。

祖母の残した瓶を想うように香りを選んでいた。

しかし気づけば、

類は“市場”に向けて香りを作るようになっていた。

香りの“質”が変わったわけではない。

だが、“祈り”の濃度は、確実に薄まっていた。




そんなある日、ふと古い引き出しを開けると、

最初に作ったネロリのメモが出てきた。

そこには震えるような文字で、こう書かれていた。

《記憶の扉を開くための鍵》

《誰かが失った声を、もう一度この世界へ》

類は読みながら、自分の心が少しだけ揺れるのを感じた。

彼はまだ、兄に手紙を書き続けていたのだ。

それが香水であり、香りであり、自分の作品だった。

そう思ったとき、彼のなかで何かがまた、静かに燃え始めた。


───これはビジネスではなく、祈りの継承だ。


自分は勝ったわけではない。

ただ、生き延びてきただけだ。

それでも、なお香りを作る理由があるのなら、

それは、まだ終わらぬ“語り”のためだった。

香りは、終わらない手紙。

そして、誰かの“存在の証明”でもある。

類は再び、ネロリの香りを手にした。

それは初心に戻るという意味ではなく、

“血”に還るという行為だった。



次に彼が作る香りは、社内でも驚きをもって迎えられた。

テーマは「存在の輪郭」

トップはベルガモットと墨、

ミドルに青藍の花々と沈丁花、

そしてラストに、あのネロリ。


誰にも気づかれないように、

だが確実に、彼は“兄の香り”を埋め込んだ。

これは、類にとってのレクイエムだった。

あるいは、再会の予告状だったのかもしれない。