静かなる復讐は、花が咲くように始まった。
音もなく、だが確実に。
類は、あの日ネロリの名が奪われた悔しさを胸に、
それでも香りの世界で生きることを選んだ。
そしてその選択は、
やがて誰にも止められない“快進撃”へと変わっていく。
最初のヒットは偶然だった。
夏向けの限定シリーズ。
誰もが無難なマリン調を提案する中、
類はただひとり「冷えた白桃とミントの香り」を出した。
「甘いのに、冷たい」
「果実なのに、都会的」
「懐かしいのに、新しい」
社内では賛否両論だったが、
発売と同時にSNSで話題となり、初回生産は三日で完売した。
インフルエンサーの投稿、
“#匂いだけで恋に落ちる”という言葉がトレンドになった。
類の提案した香りは、ただ“売れた”のではない。
“記憶”になった。
それは、かつて兄の香水が、
彼のなかに残したものと同じ“作用”だった。
二作目、三作目と類はヒットを連発した。
“香りの天才”“感性の錬金術師”
そんな仰々しい二つ名が、業界紙で踊った。
しかし彼自身は、それらの称号に無関心だった。
求めていたのは名誉ではない。
“香りが届く”という、確かな手応えだった。
なぜなら、それは──
かつて伝えたかった感情のかけら、
誰にも届かなかった演技の代償、
そして、兄への“報告”でもあったから。
上司たちはようやく類を“主役”として扱い始めた。
重要なプロジェクトの香料選定、
広告コピーの監修、
さらには新ブランドの立ち上げ案も任されるようになった。
だがその一方で、彼の中には奇妙な空洞も生まれ始めていた。
仕事は充実していた。
評価もついてきた。
けれど、なにかが足りなかった。
それはきっと、
“語る相手”の不在だった。
過去、兄に語りかけるように香りを作っていた。
祖母の残した瓶を想うように香りを選んでいた。
しかし気づけば、
類は“市場”に向けて香りを作るようになっていた。
香りの“質”が変わったわけではない。
だが、“祈り”の濃度は、確実に薄まっていた。
そんなある日、ふと古い引き出しを開けると、
最初に作ったネロリのメモが出てきた。
そこには震えるような文字で、こう書かれていた。
《記憶の扉を開くための鍵》
《誰かが失った声を、もう一度この世界へ》
類は読みながら、自分の心が少しだけ揺れるのを感じた。
彼はまだ、兄に手紙を書き続けていたのだ。
それが香水であり、香りであり、自分の作品だった。
そう思ったとき、彼のなかで何かがまた、静かに燃え始めた。
───これはビジネスではなく、祈りの継承だ。
自分は勝ったわけではない。
ただ、生き延びてきただけだ。
それでも、なお香りを作る理由があるのなら、
それは、まだ終わらぬ“語り”のためだった。
香りは、終わらない手紙。
そして、誰かの“存在の証明”でもある。
類は再び、ネロリの香りを手にした。
それは初心に戻るという意味ではなく、
“血”に還るという行為だった。
次に彼が作る香りは、社内でも驚きをもって迎えられた。
テーマは「存在の輪郭」
トップはベルガモットと墨、
ミドルに青藍の花々と沈丁花、
そしてラストに、あのネロリ。
誰にも気づかれないように、
だが確実に、彼は“兄の香り”を埋め込んだ。
これは、類にとってのレクイエムだった。
あるいは、再会の予告状だったのかもしれない。
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