第二章:失われた午後のなかで|1 scent for dreams

午後の光は、いつも斜めだった。

幼い類の世界では、光は正面から差し込んでくるものではなく、

畳をなぞるように傾き、沈黙の縁を縫っていくものだった。

その光のなかに、父がいた。

分厚い新聞の陰から顔をのぞかせることもなく、

ただ静かに、冷えたコーヒーを啜るだけの人だった。


父・葉山征爾。

彼は熊谷の旧家の出で、

敗戦で全てを失った祖の息子として、

失われた誇りを、歯を食いしばって拾い集めてきた人だった。

「勝たねば意味がない」

そう口癖のように呟く父の言葉には、

何かを信じるというよりも、何かを赦さぬ決意が滲んでいた。



父は、兄を認めなかった。

「音楽など、敗者の逃避だ」

「己の身を立てる術を持て」

兄がピアノの前に座ると、

その背に視線を刺すような沈黙を落とした。

兄・颯真は、それでも弾いた。

音のなかにだけ、彼は彼でいることができたから。

類は、廊下に座ってそれを聴いた。

鍵盤の音は、彼にとって兄の声そのものだった。

優しくて、強くて、どこか遠くを見ていた。




そして母は、そのすべてを見ていた。

言葉にせず、姿勢を変えず、

けれどたしかに、見ていた。

母・千賀は、牧歌的な家庭に育った。

母方の祖父母は、戦争を憎み、欧米への嫌悪を隠さぬ人々だった。

だが、母は欧州の建築、音楽、そして香水に密かな憧れを抱いていた。

そのズレは、結婚によって深まり、

父の価値観と、母の微かな夢は、

決して混じり合うことはなかった。

ただ母は、沈黙という衣をまとい、

家族の裂け目にそっと布を被せるように、笑った。

その笑顔は、類にとって痛々しいまでに優しかった。


ある晩、兄が父に叫んだ。

「俺は、父さんのために生きてるわけじゃない!」

その声は震えていた。怒りではなく、絶望の震えだった。

応じる父の声は、刃物のように鋭かった。

「なら出て行け。家の名を汚すな」

その翌朝、兄は本当にいなかった。

机には何も残っていなかった。

香水すらも。

それでも、類の心の奥には、

兄の香りが、音楽のように漂っていた。




季節は巡り、兄は戻らなかった。

たった一度の年賀状、音符のような文字で書かれた一言。

《類、君の感性を大切に》

それは、兄が唯一送ってきた手紙だった。

類はその日、兄の残した音と香りを胸に、

ひとりで庭に出た。

風が吹いていた。

あの時と、同じ風だった。

兄が去った午後。

父が新聞をたたんだ音が、

まるで何かを封じ込める合図のように聞こえた。

そのあと、父は二度と兄の名を口にしなかった。



類は思った。

家族とは、綻びの連なりだ。

だが、だからこそ、それを結び直そうとする行為に、

ひとの美しさが宿るのではないかと。

兄を失った午後から、

類のなかでなにかが静かに芽吹いていた。

香りという、記憶の奥から咲く花のようなものが。

それは、まだ名前も持たぬ、

とても静かな夢の芽だった。