午後の光は、いつも斜めだった。
幼い類の世界では、光は正面から差し込んでくるものではなく、
畳をなぞるように傾き、沈黙の縁を縫っていくものだった。
その光のなかに、父がいた。
分厚い新聞の陰から顔をのぞかせることもなく、
ただ静かに、冷えたコーヒーを啜るだけの人だった。
父・葉山征爾。
彼は熊谷の旧家の出で、
敗戦で全てを失った祖の息子として、
失われた誇りを、歯を食いしばって拾い集めてきた人だった。
「勝たねば意味がない」
そう口癖のように呟く父の言葉には、
何かを信じるというよりも、何かを赦さぬ決意が滲んでいた。
父は、兄を認めなかった。
「音楽など、敗者の逃避だ」
「己の身を立てる術を持て」
兄がピアノの前に座ると、
その背に視線を刺すような沈黙を落とした。
兄・颯真は、それでも弾いた。
音のなかにだけ、彼は彼でいることができたから。
類は、廊下に座ってそれを聴いた。
鍵盤の音は、彼にとって兄の声そのものだった。
優しくて、強くて、どこか遠くを見ていた。
そして母は、そのすべてを見ていた。
言葉にせず、姿勢を変えず、
けれどたしかに、見ていた。
母・千賀は、牧歌的な家庭に育った。
母方の祖父母は、戦争を憎み、欧米への嫌悪を隠さぬ人々だった。
だが、母は欧州の建築、音楽、そして香水に密かな憧れを抱いていた。
そのズレは、結婚によって深まり、
父の価値観と、母の微かな夢は、
決して混じり合うことはなかった。
ただ母は、沈黙という衣をまとい、
家族の裂け目にそっと布を被せるように、笑った。
その笑顔は、類にとって痛々しいまでに優しかった。
ある晩、兄が父に叫んだ。
「俺は、父さんのために生きてるわけじゃない!」
その声は震えていた。怒りではなく、絶望の震えだった。
応じる父の声は、刃物のように鋭かった。
「なら出て行け。家の名を汚すな」
その翌朝、兄は本当にいなかった。
机には何も残っていなかった。
香水すらも。
それでも、類の心の奥には、
兄の香りが、音楽のように漂っていた。
季節は巡り、兄は戻らなかった。
たった一度の年賀状、音符のような文字で書かれた一言。
《類、君の感性を大切に》
それは、兄が唯一送ってきた手紙だった。
類はその日、兄の残した音と香りを胸に、
ひとりで庭に出た。
風が吹いていた。
あの時と、同じ風だった。
兄が去った午後。
父が新聞をたたんだ音が、
まるで何かを封じ込める合図のように聞こえた。
そのあと、父は二度と兄の名を口にしなかった。
類は思った。
家族とは、綻びの連なりだ。
だが、だからこそ、それを結び直そうとする行為に、
ひとの美しさが宿るのではないかと。
兄を失った午後から、
類のなかでなにかが静かに芽吹いていた。
香りという、記憶の奥から咲く花のようなものが。
それは、まだ名前も持たぬ、
とても静かな夢の芽だった。
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