倫理と香水

高校の時、一番好きな授業が倫理の授業でした。


ソクラテス、アリストテレス、ニーチェ、カント、などなど。


高校三年生の僕はのめり込むように倫理の世界に没頭していきました。


倫理だけはかなーり熱心に勉強していたので、先生に気に入られてNHKのディレクターに紹介してもらい、当時のNHKしゃべりばスペシャルに出たこともありました。笑


しゃべりば、確か生放送で5時間くらいやったような。。。



良い思い出です。笑



当時熱中した哲学者たちの世界も、今となっては記憶が曖昧なので、正確に理解できている範疇はかなり狭いのですが、、、



思春期に倫理という授業に出会い、哲学者たちの知の世界に触れたことは非常に良い経験だったなと思っています。



僕は、

フレグランスって色っぽくて艶っぽいものだけど、香りそのものはとても哲学的な世界だと思っています。



目には見えず、実態が見えないもの。


そこに確実に存在はしていて、感覚にだけ訴えかける。


他人とそのイメージを共有することが難しい。


かっこつけて言えば、「情念」や「意識」と近いような気がしますね。



フレグランスは「見えない部分を逆手に取るかどうか」でそこから先のアプローチがガラッっと変わってくると考えています。



普通に考えると、見えないものを売るのは、やりづらいですよね。笑



でも、僕にはフレグランスの特性である「見えない」という点があまり気にならないのですが、これは、思春期に倫理を学んだことが幸いしているのかな、とふと思ったので書いてみました。


特にカントが効いてる気がする。


興味のある方は、難しいですが見てみてください。




カント

カント Immanuel Kant( 1724-1804) ―語りえないものについては、沈黙しなければならない。(ウィトゲンシュタイン)『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft 1781)『純粋理性批判』は、科学の成立根拠を問うと共に、経験に基づかない「形而上学」を批判する試みである。 カントの学問の基礎づけは、百年前ならまだしも、現代の科学論として、あまり有効だとも思えないので、簡単に説明するに留める。 1)カントの言うことを理解するためには、まず、感性と悟性と理性という三つの能力を区別する必要がある。 「感性」は「直観」の能力であり、時間と空間という形式を持つ。(「直観」とは、カントの場合、見たり、聞いたりする感性的(=感覚的)な直接知を意味する。)我々が何かを見たり聞いたりする際には常に、その条件として、時間と空間という形式が先行しているはずである。我々は物(あるいは何かのイメージ)を空間(および時間)なしに考えることは出来ないのだから。 「悟性」と訳される「フェアシュタント(Verstand)」というドイツ語は、「解る」「理解する」という意味の動詞(verstehen)から来ていて、「理解する力」「常識」(英訳は、"understanding")を意味する。その純粋な形式が、カントが「カテゴリー」と呼ぶ、判断の論理的形式である。(これには、肯定や否定という判断の「質」、存在や全称という判断の「量」、実体や因果性という判断の「関係」、必然や可能という判断の「様相」がある。) これに対して、ここで問題になっている「理性」は、より高次の、悟性の判断を総合的に関係づける、推理の能力である。例えば、「人間は死ぬ」という命題は、「生物」という媒概念を介して、「人間は生物である」「生物は死ぬ」という二つの判断を総合したものである。(カントの場合、推理といえば、殆んど三段論法を指す。ところで、カントは、当然知りませんでしたが、「膨張宇宙」とか「ビッグバン」とかいった理論を生み出すのは、悟性の判断(経験的データ)を総合する理性の働きだと思うのですが、カントに詳しい人、どうでしょうか?) 2)次に、分析的判断と総合的判断の区別、アプリオリ(a priori)な認識とアポステリオリ(a posteriori)な認識の区別を押さえる必要がある。 アポ

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