第一章:風は、記憶の扉を叩く|1 scent for dreams



風が吹いていた。


それは午後三時の静寂を優しく破るようにして、葉山家の窓辺をかすかに鳴らした。

鳴ったのは、風ではなく記憶かもしれなかった。

あるいはそれは、遠く去っていった人の気配だったのかもしれない。






類は、兄の部屋の引き出しを開けていた。

帰省は数日だけ。兄はまた、どこかへ行ってしまう。

彼が残していった部屋には、いくつもの香りがあった。




陽に焼けた紙のにおい、机の木目に沁み込んだインク、

そして——ネロリの香り。



「これはおまえにやるよ」と、兄は言った。

イギリスからの帰省中のことだった。

見慣れない細長い瓶。

小さな金属のキャップ、簡素な文字が印刷されたラベル。

そのなかに閉じ込められていたのは、まだ世界を知らない弟にとって、

世界そのもののような匂いだった。


少しだけ大人びて、少しだけ寂しくて、

そして何よりも、兄の気配がした。

その香りをつけて、類はひとりで庭に出た。

金木犀も、桜も、まだ咲かない季節だったが、

風のなかにひとつの花が咲いたような気がした。

香りというものが、記憶を内側から揺らすものだと知ったのは、

この時だった。






父は香水を嫌っていた。

「男が香りに耽るなど、腑抜けの証だ」

そう言って、兄の嗜好を疎んじた。

けれど、母の衣にふと香るジャスミンを、父は決して咎めなかった。

愛していたのか、あるいは諦めていたのか。

父の感情は、いつも硬い石のようで、触れれば冷たかった。

兄は、父に歯向かうようにして旅立った。

音楽の道に進みたいと告げた夜、父と激しく言い争った。

類はその隣の部屋で、震えながら耳をふさいでいた。

翌朝、兄はいなかった。

その代わり、机の上に香水の瓶がひとつ。

置き手紙はなかった。

香りだけが、兄の言葉だった。

「類、おまえは…」

どんな言葉を続けたかったのだろう。




類はその後も何度もその香りを手に取り、

大切な場面で少しだけ身にまとった。

小学校の卒業式。

初めての受験。

祖母の葬式。

そして、兄が帰ってこなかった春。

風が吹くたびに、類のなかで何かが目覚める。

それは誰かを思う気持ちであり、

なにかを残そうとする願いだった。

香りは、声なき祈り。

そして、沈黙のなかで語られる手紙だった。






類が初めて「自分だけの言葉」を持ちたいと願ったのは、

香りとの出会いがきっかけだったのかもしれない。

人は音楽を奏でる。

絵を描く。

詩を書く。

けれど類にとって、

「香り」はそのどれとも違う、

もっと原始的で、もっと深く静かな——表現だった。

それはきっと、

いつかまた誰かに渡すための、見えない手紙だった。