風が吹いていた。
それは午後三時の静寂を優しく破るようにして、葉山家の窓辺をかすかに鳴らした。
鳴ったのは、風ではなく記憶かもしれなかった。
あるいはそれは、遠く去っていった人の気配だったのかもしれない。
類は、兄の部屋の引き出しを開けていた。
帰省は数日だけ。兄はまた、どこかへ行ってしまう。
彼が残していった部屋には、いくつもの香りがあった。
陽に焼けた紙のにおい、机の木目に沁み込んだインク、
そして——ネロリの香り。
「これはおまえにやるよ」と、兄は言った。
イギリスからの帰省中のことだった。
見慣れない細長い瓶。
小さな金属のキャップ、簡素な文字が印刷されたラベル。
そのなかに閉じ込められていたのは、まだ世界を知らない弟にとって、
世界そのもののような匂いだった。
少しだけ大人びて、少しだけ寂しくて、
そして何よりも、兄の気配がした。
その香りをつけて、類はひとりで庭に出た。
金木犀も、桜も、まだ咲かない季節だったが、
風のなかにひとつの花が咲いたような気がした。
香りというものが、記憶を内側から揺らすものだと知ったのは、
この時だった。
父は香水を嫌っていた。
「男が香りに耽るなど、腑抜けの証だ」
そう言って、兄の嗜好を疎んじた。
けれど、母の衣にふと香るジャスミンを、父は決して咎めなかった。
愛していたのか、あるいは諦めていたのか。
父の感情は、いつも硬い石のようで、触れれば冷たかった。
兄は、父に歯向かうようにして旅立った。
音楽の道に進みたいと告げた夜、父と激しく言い争った。
類はその隣の部屋で、震えながら耳をふさいでいた。
翌朝、兄はいなかった。
その代わり、机の上に香水の瓶がひとつ。
置き手紙はなかった。
香りだけが、兄の言葉だった。
「類、おまえは…」
どんな言葉を続けたかったのだろう。
類はその後も何度もその香りを手に取り、
大切な場面で少しだけ身にまとった。
小学校の卒業式。
初めての受験。
祖母の葬式。
そして、兄が帰ってこなかった春。
風が吹くたびに、類のなかで何かが目覚める。
それは誰かを思う気持ちであり、
なにかを残そうとする願いだった。
香りは、声なき祈り。
そして、沈黙のなかで語られる手紙だった。
類が初めて「自分だけの言葉」を持ちたいと願ったのは、
香りとの出会いがきっかけだったのかもしれない。
人は音楽を奏でる。
絵を描く。
詩を書く。
けれど類にとって、
「香り」はそのどれとも違う、
もっと原始的で、もっと深く静かな——表現だった。
それはきっと、
いつかまた誰かに渡すための、見えない手紙だった。
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