2025.10.23 08:07第四章:曖昧な光、確かな影|1 scent for dreams夢は、ある日突然、光を失う。だがその失明は、外から見れば気づかれぬほど緩慢で、まるで夕暮れが夜に溶けていくようだった。類は、俳優になる夢を捨てた。それが「夢」だったことにすら、後になって気づくほどに静かに、その想いは手のひらから零れていった。演技を愛していた。だが、業界はそれとは別の顔をしていた。表現は情熱ではなく、機会に。才能は輝きではなく、誰かの都合に変換される。光の中に立つには、無数の“知らぬ誰か”に、評価されなければならなかった。「いい役者になるより、いい役をもらえる人になれ」と、ある演出家は言った。類には、それが呪いのように聞こえた。
2025.10.09 03:15第三章:目覚めゆく感性|1 scent for dreams日曜の午後、テレビの画面が淡い光を放つ。父が眠っている隣で、類は黙ってその光を見つめていた。画面の中には、架空の誰かがいて、架空の街を歩き、架空の恋をしていた。けれど、類にとってそれは、現実よりもはるかに確かなものだった。「ぼくも、あそこに行きたい」その言葉を誰に向けたわけでもない。けれど、その瞬間から類の内側で、何かが目を覚ました。それは、演じたいという欲望ではなかった。なりたいわけでも、見られたいわけでもない。ただ、「何かを伝えたい」という、原初の衝動のようなものだった。
2025.09.25 07:00第二章:失われた午後のなかで|1 scent for dreams午後の光は、いつも斜めだった。幼い類の世界では、光は正面から差し込んでくるものではなく、畳をなぞるように傾き、沈黙の縁を縫っていくものだった。その光のなかに、父がいた。分厚い新聞の陰から顔をのぞかせることもなく、ただ静かに、冷えたコーヒーを啜るだけの人だった。父・葉山征爾。彼は熊谷の旧家の出で、敗戦で全てを失った祖の息子として、失われた誇りを、歯を食いしばって拾い集めてきた人だった。「勝たねば意味がない」そう口癖のように呟く父の言葉には、何かを信じるというよりも、何かを赦さぬ決意が滲んでいた。
2025.09.11 06:54第一章:風は、記憶の扉を叩く|1 scent for dreams風が吹いていた。それは午後三時の静寂を優しく破るようにして、葉山家の窓辺をかすかに鳴らした。鳴ったのは、風ではなく記憶かもしれなかった。あるいはそれは、遠く去っていった人の気配だったのかもしれない。