第四章:曖昧な光、確かな影|1 scent for dreams


夢は、ある日突然、光を失う。

だがその失明は、外から見れば気づかれぬほど緩慢で、

まるで夕暮れが夜に溶けていくようだった。

類は、俳優になる夢を捨てた。

それが「夢」だったことにすら、後になって気づくほどに静かに、

その想いは手のひらから零れていった。

演技を愛していた。

だが、業界はそれとは別の顔をしていた。

表現は情熱ではなく、機会に。

才能は輝きではなく、誰かの都合に変換される。

光の中に立つには、

無数の“知らぬ誰か”に、評価されなければならなかった。

「いい役者になるより、いい役をもらえる人になれ」

と、ある演出家は言った。

類には、それが呪いのように聞こえた。



大学では政治学を学んだ。

演じることは、誰かの思考をなぞることでもあったから、

思想や制度を学ぶことに、違和感はなかった。

だが、心のどこかで、

“代わりの人生”をなぞっている感覚があった。

まるで他人の靴を履いているような、

その足元の違和感は、ずっと消えなかった。

周囲は未来を描いていた。

類だけが、未来を“演じて”いた。

「将来はどうするの?」と聞かれたとき、

口先で答える進路に、心はなかった。

だがそれでも、時間は進む。

周囲も進む。

演技のような現実の中で、

類は“ちゃんとした人間”の仮面を剥がせなくなっていた。



卒業とともに、彼はイギリスへ渡った。

兄がかつて暮らした国、そして夢を託した場所。

ランカスターの曇り空は、

日本の四季のような劇的さを欠いていたが、

その代わり、心の濁りにはよく馴染んだ。

英国の大学院で学ぶ政治思想は、

予想よりもずっと抽象的で、

ときに演劇よりもドラマチックだった。

“国家とは何か”

“自由とは何か”

“勝者とは、誰か”

それらの問いは、

かつて兄が父に放った叫びの続きのようでもあった。

ある教授は言った。

「政治とは、希望の配分である」

その言葉に、類はかすかな眩暈を覚えた。

香りもまた、希望の配分だった。

誰かの心の奥に、希望を一滴、落とすための。

演技は捨てた。

だが、何かを伝える手段を求める心は、生きていた。



ある日、ロンドンの小さな映画館で、

かつての日本の自主映画が上映されていた。

出演していたのは、かつて同じ舞台に立った仲間だった。

彼は光を纏っていた。

スクリーンのなかで、生きていた。

類はひとり、席を立てずにいた。

胸の奥に、古い香水瓶を落としたような音がした。

——もしも、あのとき、何かが違っていたなら。

けれどその“もしも”は、

過去ではなく未来へ向けられるべきだと、彼は思った。

夢の残骸は、時に未来への設計図になる。

痛みの輪郭こそが、自分の輪郭を描くのだ。

香りもまた、そうではなかったか?

見えず、形を持たぬものが、確かに存在する。

それは、人の感情も、人生も、同じではなかったか。



帰国した類は、無言のまま就職活動を始めた。

芸能事務所でもなく、政策研究所でもなく、

選んだのは——香水会社だった。

誰にも理由は話さなかった。

けれど、彼の中ではすでに確かな“接点”があった。

兄から受け取った香り、

祖母が遺した瓶、

そして、自らの“表現の欲望”。

類はようやく理解し始めていた。

演じることも、語ることも、香ることも、

みな、心のどこかに触れるための手段にすぎないのだと。

だが、それを“仕事”にするということは——

想像以上に、過酷な世界への入り口でもあった。