日曜の午後、テレビの画面が淡い光を放つ。
父が眠っている隣で、類は黙ってその光を見つめていた。
画面の中には、架空の誰かがいて、
架空の街を歩き、架空の恋をしていた。
けれど、類にとってそれは、現実よりもはるかに確かなものだった。
「ぼくも、あそこに行きたい」
その言葉を誰に向けたわけでもない。
けれど、その瞬間から類の内側で、
何かが目を覚ました。
それは、演じたいという欲望ではなかった。
なりたいわけでも、見られたいわけでもない。
ただ、「何かを伝えたい」という、
原初の衝動のようなものだった。
中学に上がったころ、類は文化祭で初めて舞台に立った。
配役は主役でも脇役でもない、名もなき通行人。
けれど、たった一言の台詞のために、彼は何時間も立ち位置と呼吸を練習した。
「おまえ、そんなに真面目にやらなくてもいいんじゃない?」
クラスメイトの何気ない一言が、
類の中で奇妙な誇りに変わっていった。
「誰も見ていないところにこそ、真実は宿る」
そんな言葉を、いつしか彼は心のなかで呟くようになった。
舞台の袖に立つと、心がざわつく。
それは不安ではなく、何かを始める前の“呼吸”だった。
光の向こうにあるものへ、
まだ言葉にならないままの想いを、香りのように漂わせる。
演じるという行為は、香りに似ていた。
目に見えないものが、ふと空間を満たす。
そしてそれが誰かの心に触れたとき、
ようやく意味を持つ。
高校に入ると、類は演劇部に所属した。
家庭のなかでは“黙って勉強する子”で通っていたが、
放課後の教室では別の顔があった。
脚本を書くことにも興味を持ち始めた。
あるとき、彼は兄の手紙にあった《感性》という言葉を、
台詞の中に書き込んだ。
「感性は、傷ついた場所から花を咲かせる」
顧問の教師が言った。
「この台詞、君の実感から出た言葉だね」
それが、類にとってはじめての“承認”だった。
父は相変わらず類の内面に興味を示さなかった。
ただ成績を見て、「まあまあだな」と言うだけだった。
母もそれ以上、何かを語ることはなかった。
それでも、類のなかでは確かな“息づかい”が育っていた。
誰に知られずとも、自分の内にある“音楽”があった。
それは兄の残した音に似ていた。
鍵盤のないピアノ。
香りのしない香水。
姿を持たない舞台。
だが、たしかにそこに在るものだった。
ある夜、ふと祖母の遺したトランクを開けた。
そこには、古い8mmのフィルムと、
今では誰も使わない香水瓶があった。
埃をかぶったその瓶を、そっと開けると、
かすかにバニラとタバコの混じったような、
時の奥底から漂ってくる匂いがした。
類は涙がこぼれそうになるのをこらえながら、
その瓶をポケットに忍ばせ、
次の稽古へと向かった。
祖母も、母も、兄も。
香りを纏って生きていた。
それが一族の血であり、声だったのかもしれない。
香り。
それは、感性の記憶装置。
それを理解したとき、類の演技は変わり始めた。
演じるとは、記憶を纏うこと。
他者の人生を生きるのではなく、
自分の中の“誰か”を呼び起こすこと。
類はまだその言葉を知らなかったが、
感性が、目を覚ました瞬間だった。
0コメント