第三章:目覚めゆく感性|1 scent for dreams

日曜の午後、テレビの画面が淡い光を放つ。

父が眠っている隣で、類は黙ってその光を見つめていた。

画面の中には、架空の誰かがいて、

架空の街を歩き、架空の恋をしていた。

けれど、類にとってそれは、現実よりもはるかに確かなものだった。

「ぼくも、あそこに行きたい」

その言葉を誰に向けたわけでもない。

けれど、その瞬間から類の内側で、

何かが目を覚ました。

それは、演じたいという欲望ではなかった。

なりたいわけでも、見られたいわけでもない。

ただ、「何かを伝えたい」という、

原初の衝動のようなものだった。


中学に上がったころ、類は文化祭で初めて舞台に立った。

配役は主役でも脇役でもない、名もなき通行人。

けれど、たった一言の台詞のために、彼は何時間も立ち位置と呼吸を練習した。

「おまえ、そんなに真面目にやらなくてもいいんじゃない?」

クラスメイトの何気ない一言が、

類の中で奇妙な誇りに変わっていった。

「誰も見ていないところにこそ、真実は宿る」

そんな言葉を、いつしか彼は心のなかで呟くようになった。

舞台の袖に立つと、心がざわつく。

それは不安ではなく、何かを始める前の“呼吸”だった。

光の向こうにあるものへ、

まだ言葉にならないままの想いを、香りのように漂わせる。

演じるという行為は、香りに似ていた。

目に見えないものが、ふと空間を満たす。

そしてそれが誰かの心に触れたとき、

ようやく意味を持つ。


高校に入ると、類は演劇部に所属した。

家庭のなかでは“黙って勉強する子”で通っていたが、

放課後の教室では別の顔があった。

脚本を書くことにも興味を持ち始めた。

あるとき、彼は兄の手紙にあった《感性》という言葉を、

台詞の中に書き込んだ。

「感性は、傷ついた場所から花を咲かせる」

顧問の教師が言った。

「この台詞、君の実感から出た言葉だね」

それが、類にとってはじめての“承認”だった。

父は相変わらず類の内面に興味を示さなかった。

ただ成績を見て、「まあまあだな」と言うだけだった。

母もそれ以上、何かを語ることはなかった。

それでも、類のなかでは確かな“息づかい”が育っていた。

誰に知られずとも、自分の内にある“音楽”があった。

それは兄の残した音に似ていた。

鍵盤のないピアノ。

香りのしない香水。

姿を持たない舞台。

だが、たしかにそこに在るものだった。


ある夜、ふと祖母の遺したトランクを開けた。

そこには、古い8mmのフィルムと、

今では誰も使わない香水瓶があった。

埃をかぶったその瓶を、そっと開けると、

かすかにバニラとタバコの混じったような、

時の奥底から漂ってくる匂いがした。

類は涙がこぼれそうになるのをこらえながら、

その瓶をポケットに忍ばせ、

次の稽古へと向かった。

祖母も、母も、兄も。

香りを纏って生きていた。

それが一族の血であり、声だったのかもしれない。


香り。

それは、感性の記憶装置。


それを理解したとき、類の演技は変わり始めた。

演じるとは、記憶を纏うこと。

他者の人生を生きるのではなく、

自分の中の“誰か”を呼び起こすこと。

類はまだその言葉を知らなかったが、

感性が、目を覚ました瞬間だった。