第七章:彼女がいた季節(前編)|1 scent for dreams

彼女は、風だった。

気まぐれに現れ、思い通りに動き、

人の境界線に躊躇なく入り込む。

そして、誰のものにもならずに去っていく——

そんな、都市にしか咲かない種類の花だった。



広告塔。

トップモデル。

高級ブランドの顔。

週刊誌の見出し。

表紙を飾る女。

それが、彼女だった。

類が最初に彼女を見たのは、駅構内の巨大な広告だった。

濃紺のドレスに、赤いリップ、遠くを見つめる横顔。

「手の届かない美しさ」のテンプレートのような人だった。

まさかその数ヶ月後、同じフロアのカジュアルな社内打ち合わせで彼女と並ぶとは——

そのときの類には、想像すらできなかった。

「なんか、会社って狭いよね。香水作ってる人がこんな地味だなんて」

最初の言葉は、無邪気にして暴力的だった。

だがその軽さが、なぜか類には心地よかった。

「ねえ、るいくんって、香りで恋とかしたことある?」

「あるわけないか、そんな顔してないもん」

笑いながら、彼女は平然と距離を詰めてきた。

彼女は、目が合っても逸らさなかった。

触れるように見て、見つめるように話し、

まるでそこに境界が存在しないかのように振る舞った。




「映画いこうよ。平日の昼間、休みとって」

「カフェで香り嗅ぎっこしよう。ブラインドテストで、私が勝ったらアイスね」

「あなたの部屋、なんか犬っぽい匂いする。実家、柴犬飼ってたでしょ?」

「私の香り、覚えててくれてる?」

彼女は会うたびに言葉を投げ、ルールを崩し、予定を狂わせた。

最初は、類も困惑した。

彼女は約束を守らなかった。

ドタキャンし、急に連絡し、深夜に呼び出し、翌朝には音信不通になった。

だが、それすらも“彼女らしさ”として受け入れてしまうほどに、

類はもう、深く飲み込まれていた。

「あなたって……なんか、かわいい。自分で思ってるよりずっと」

そんなことを、彼女は夜のコンビニ帰りにぽつりと呟いた。

それは魔法のようだった。

類は、自分が“かわいい”と形容されることがある世界を知らなかった。

彼女の言葉は、世界をねじ曲げる力があった。





ある夜、酔った彼女がポツリと言った。

「ねえ、私ね……いつか全部失う気がするの」

そのときだけは、彼女の目がどこか遠かった。

類はそっと、彼女の手に触れた。

すると彼女は、子供のようにしがみついてきた。

「るいくんだけは、いなくならないで」

「……私、あなたに名前をあげたんだから」

その夜から、類にとって“るいくん”は、世界で最も尊い呼び名になった。

兄も呼ばなかった、家族すら使わなかった、唯一の響き。

それはアイデンティティだった。

彼女が彼の“存在”を名付けてくれたのだ。



だが、光はいつだって陰を孕む。

彼女は多忙だった。

表に出る仕事が増え、インタビューに、撮影に、海外のオファーに。

一方で、類は変わらず中堅企業の社員だった。

小さな机で香りの企画書を書き、

彼女のSNSに載るブランドの影で、名前も知られぬまま働いていた。

デートは減り、返信は遅れ、

それでも類は、すがるように彼女を信じ続けた。

「私ね、すごく幸せだったんだよ、ほんと。

でも、なんていうか……もうすぐ壊れそうな気がするの。

私たちのことじゃなくて、私のなかの何かが」

別れの気配は、湿った空気のようにじわじわと漂っていた。

そして、ある日。

彼女は、もう会えないと告げた。

「好きだけじゃ、生きていけないの。

私には、生活がある。現実がある。

あなたには……ないでしょ? ごめんね」

その“ごめんね”の一言で、類は全てを理解した。

彼女は、類を愛していた。

でも、“勝てない類”を愛し続けるほど、

この世界は甘くなかった。

彼女は現実を選び、類は取り残された。




その夜、類はひとり、

ネロリの香りを嗅ぎながら、

ベッドの中で名前を呼ばれた記憶を反芻した。

——るいくん。

あの響きだけは、確かに本物だった。

自分だけのものだった。

そう言える日を迎えるために。

……そう、信じていた。

だが、この幻想が砕けるのは、次章のこととなる。