彼女は、風だった。
気まぐれに現れ、思い通りに動き、
人の境界線に躊躇なく入り込む。
そして、誰のものにもならずに去っていく——
そんな、都市にしか咲かない種類の花だった。
広告塔。
トップモデル。
高級ブランドの顔。
週刊誌の見出し。
表紙を飾る女。
それが、彼女だった。
類が最初に彼女を見たのは、駅構内の巨大な広告だった。
濃紺のドレスに、赤いリップ、遠くを見つめる横顔。
「手の届かない美しさ」のテンプレートのような人だった。
まさかその数ヶ月後、同じフロアのカジュアルな社内打ち合わせで彼女と並ぶとは——
そのときの類には、想像すらできなかった。
「なんか、会社って狭いよね。香水作ってる人がこんな地味だなんて」
最初の言葉は、無邪気にして暴力的だった。
だがその軽さが、なぜか類には心地よかった。
「ねえ、るいくんって、香りで恋とかしたことある?」
「あるわけないか、そんな顔してないもん」
笑いながら、彼女は平然と距離を詰めてきた。
彼女は、目が合っても逸らさなかった。
触れるように見て、見つめるように話し、
まるでそこに境界が存在しないかのように振る舞った。
「映画いこうよ。平日の昼間、休みとって」
「カフェで香り嗅ぎっこしよう。ブラインドテストで、私が勝ったらアイスね」
「あなたの部屋、なんか犬っぽい匂いする。実家、柴犬飼ってたでしょ?」
「私の香り、覚えててくれてる?」
彼女は会うたびに言葉を投げ、ルールを崩し、予定を狂わせた。
最初は、類も困惑した。
彼女は約束を守らなかった。
ドタキャンし、急に連絡し、深夜に呼び出し、翌朝には音信不通になった。
だが、それすらも“彼女らしさ”として受け入れてしまうほどに、
類はもう、深く飲み込まれていた。
「あなたって……なんか、かわいい。自分で思ってるよりずっと」
そんなことを、彼女は夜のコンビニ帰りにぽつりと呟いた。
それは魔法のようだった。
類は、自分が“かわいい”と形容されることがある世界を知らなかった。
彼女の言葉は、世界をねじ曲げる力があった。
ある夜、酔った彼女がポツリと言った。
「ねえ、私ね……いつか全部失う気がするの」
そのときだけは、彼女の目がどこか遠かった。
類はそっと、彼女の手に触れた。
すると彼女は、子供のようにしがみついてきた。
「るいくんだけは、いなくならないで」
「……私、あなたに名前をあげたんだから」
その夜から、類にとって“るいくん”は、世界で最も尊い呼び名になった。
兄も呼ばなかった、家族すら使わなかった、唯一の響き。
それはアイデンティティだった。
彼女が彼の“存在”を名付けてくれたのだ。
だが、光はいつだって陰を孕む。
彼女は多忙だった。
表に出る仕事が増え、インタビューに、撮影に、海外のオファーに。
一方で、類は変わらず中堅企業の社員だった。
小さな机で香りの企画書を書き、
彼女のSNSに載るブランドの影で、名前も知られぬまま働いていた。
デートは減り、返信は遅れ、
それでも類は、すがるように彼女を信じ続けた。
「私ね、すごく幸せだったんだよ、ほんと。
でも、なんていうか……もうすぐ壊れそうな気がするの。
私たちのことじゃなくて、私のなかの何かが」
別れの気配は、湿った空気のようにじわじわと漂っていた。
そして、ある日。
彼女は、もう会えないと告げた。
「好きだけじゃ、生きていけないの。
私には、生活がある。現実がある。
あなたには……ないでしょ? ごめんね」
その“ごめんね”の一言で、類は全てを理解した。
彼女は、類を愛していた。
でも、“勝てない類”を愛し続けるほど、
この世界は甘くなかった。
彼女は現実を選び、類は取り残された。
その夜、類はひとり、
ネロリの香りを嗅ぎながら、
ベッドの中で名前を呼ばれた記憶を反芻した。
——るいくん。
あの響きだけは、確かに本物だった。
自分だけのものだった。
そう言える日を迎えるために。
……そう、信じていた。
だが、この幻想が砕けるのは、次章のこととなる。
0コメント