シングルマザーであり、トップモデルとして煌めく世界を軽やかに歩いていた彼女。
「父親のことはどうでも良い。私には、類が全てだから」
そう言ったときのまなざしは、たしかに嘘じゃなかった。
有名な音楽家の父、その名にいつも付きまとわされていた類にとって、 “何者でもない自分”を愛すると言ってくれたその言葉は、救いだった。
だけど、救いの言葉は、ときに人の足元を脆くする。
彼女が去った理由は、経済だった。
「子どもがいるからね……」
その言葉に、類は何も言えなかった。
夢だった。 彼女と一緒にいられるなら、この会社で生きていってもいいと思っていた。
だが、現実は一枚の書類のように冷たく、正確に別れを差し出してきた。
そして、ある日。
街角で彼女を見かけた。偶然だった。
隣には新しい男性。彼女の子どもが、その男性に駆け寄ってこう言った。
「るいくん!」
胸が砕けた。
自分の名前が、まるで別人の記号になっていた。
しかもその男は、かつての知人だった。
自分の存在の複製が、彼女の新しい日常に収まっている。
すべてが白々しく、皮肉だった。
そして、類はそこで悟る。
「俺が信じたもの、愛だと思ったものは何だったんだ?」
自分の名すら他人のものであるかのようなこの世界で、 残るものは「勝つこと」しかないのではないか。
その瞬間、父の声が、まるで遠くの太鼓のように頭の奥で響いた。
勝て、類。勝つんだ。
その言葉に、初めて肯いた気がした。
愛の美しさを信じていた少年は、ここでひとつ死んだ。
だが、代わりに生まれたのは、歯を食いしばってでも歩き出す青年だった。
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