第七章:彼女がいた季節(後編)|1 scent for dreams

シングルマザーであり、トップモデルとして煌めく世界を軽やかに歩いていた彼女。

「父親のことはどうでも良い。私には、類が全てだから」

そう言ったときのまなざしは、たしかに嘘じゃなかった。

有名な音楽家の父、その名にいつも付きまとわされていた類にとって、 “何者でもない自分”を愛すると言ってくれたその言葉は、救いだった。

だけど、救いの言葉は、ときに人の足元を脆くする。




彼女が去った理由は、経済だった。

「子どもがいるからね……」

その言葉に、類は何も言えなかった。

夢だった。 彼女と一緒にいられるなら、この会社で生きていってもいいと思っていた。

だが、現実は一枚の書類のように冷たく、正確に別れを差し出してきた。



そして、ある日。

街角で彼女を見かけた。偶然だった。

隣には新しい男性。彼女の子どもが、その男性に駆け寄ってこう言った。

「るいくん!」

胸が砕けた。

自分の名前が、まるで別人の記号になっていた。

しかもその男は、かつての知人だった。

自分の存在の複製が、彼女の新しい日常に収まっている。

すべてが白々しく、皮肉だった。





そして、類はそこで悟る。

「俺が信じたもの、愛だと思ったものは何だったんだ?」

自分の名すら他人のものであるかのようなこの世界で、 残るものは「勝つこと」しかないのではないか。

その瞬間、父の声が、まるで遠くの太鼓のように頭の奥で響いた。

勝て、類。勝つんだ。

その言葉に、初めて肯いた気がした。

愛の美しさを信じていた少年は、ここでひとつ死んだ。

だが、代わりに生まれたのは、歯を食いしばってでも歩き出す青年だった。